中動態の世界 意思と責任の考古学

2025年05月21日 15:21

「中動態の世界 意思と責任の考古学」(文庫版)國分功一郎著を読みました。著者の國分功一郎博士は、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科超越文化科学専攻教授。17世紀哲学、現代フランス思想が専門。著書に「暇と退屈の倫理学」「ドゥルーズの哲学原理」「近代政治哲学」「スピノザー読む人の肖像」「目的への抵抗」「手段からの解放」「〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究」(熊谷晋一郎と共著)などがあり、「中動態 意思と責任の考古学」は第16回小林秀雄賞を受賞している。

本の内容はこんな感じです
誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるように強いられたものでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探究すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態“に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。(表紙内容紹介より)

この文庫版は500ページを越える長いものですが、是非、なぜか注釈の後に記載されている、あとがきと文庫版補遺(もちろん文庫版でないと読めません)まで呼んで欲しいと思います。本文を読んでから補遺を読むと頭の中がすっきり整理されます。自己責任、責任と帰責性、免責と引責など考えなければならないことが満載の本でした。是非読んでみてください。

ちなみに意思と責任の考察については本文と補遺を本でもらえればよいと思うので、大筋の文脈とは外れていると思うのですが、非常に興味深かったことをここに書きたいと思います。
補遺のーギリシア的なロゴスとその外部という項目にこういう記述があります
「ギリシア哲学はロゴスという概念によってよく知られている。その特徴は様々であるが、根幹にあるのは、Aと非Aとを同時には認めない非中律という原則である。ロゴスによるならば、人間が被害者であると同時に加害者であることはあり得ない。〈中略〉しかし、同じギリシアの中でも、悲劇にはこのロゴスとは全く別の考え方が見出せることになる。それはAと非Aとが同時に肯定されるという考え方である。ロゴスの外部の肯定は少しも神秘的なものではない。免責が引責を可能にするのは、両者が同じ中動態のシステムに属しているからであり、両者は『加害者だが被害者であり、被害者だが加害者である』という仕方で、時間の中で並びあらわれる。」
この考え方をどこかの本で読んだことがあるなあ・・・と思って考えてみました。あまりはっきりとは思い出してはいないのですが、確か井筒俊彦博士(この方は鎌倉とも縁がある方です)の「意識と本質」だったと思います。井筒博士は禅を単なる宗教ではなく、哲学的な視点から深く考察し、禅の思想では、世界の現実を「ロゴス的構造体」として捉えず、言語による分節化を妄念の働きとみなします。つまり、言葉によって対象を定義すること自体が、世界の本質を固定化する誤りであると考えます。この禅の視点を「無分節の世界」として説明し、分節化される前の混沌とした状態こそが本来の世界のあり方であると述べました。(AIに助けてもらいました)
確か「我」と「彼」の区別は「コトバ」が意識に働きかけた結果、生み出してるものであるといった考え方で、「我」と「彼」の「自己」と「他者」の区別はあるようでないといった、まさに禅問答のようなことが書いてあったような気がします。ギリシア哲学と禅の思想が結びついていると考えると興味深いです。

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