「戦争特派員は見た 知られざる日本軍の現実」貴志俊彦著を読みました。著者の貴志俊彦氏は広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に「イギリス連邦占領軍と岡山」「帝国日本のプロパガンダ」「アジア太平洋戦争と収容所」「日中海底ケーブルの戦後史」「満州国のビジュアル・メディア」「東アジア流行歌アワード」などがある。(表紙裏の著者紹介より)
太平洋戦争・日中戦争の最前線には、兵士だけでなく、新聞社の特派員や写真部員たちがいた。彼らは爆撃の中を走り、濁流に呑まれる兵士を目撃し、仲間の連絡員の死に直面しながら、記事と写真を送り続けた。しかし、その多くは軍の閲覧によって「写してよいもの/ 写していけないもの」を厳しく制限され、戦場の現実はしばしば覆い隠された。この本は、毎日新聞社が秘蔵してきた6万点の「毎日戦中写真」を手掛かりに、特派員一人ひとりの仕事と人生を丹念に追いながら、兵士からは見えなかった“もう一つの戦場“を描き出す。日本では忘れられつつある戦争の記憶が、マレーシアやシンガポールでは家庭の中で語り継がれている。その記憶の断絶を背景に、著者は「戦争とは何か」「戦争の記憶は継承できるか」という問いを投げかけている。戦場を駆けた特派員たちの視線を通して、日本軍の実態、報道の役割、そして“見えなかった歴史“が立ち上がる一冊。(COPILOT作、内容紹介)
今年は戦後80年になるそうです。そこで今年最後のブログでは戦争について考えてみることにしてみました。
著者は、第二章の最後にこう書いています。
誰のための戦争報道か・・・
新聞社の特派員ではなく、会長や社長自らが戦地を巡り、各地の日本軍将校や地元の要人たちと言葉を交わすーそうした光景は、これまであまり表立って語られることはなかった。彼らの活動の背景には、戦争取材を円滑に進めるべく、自社の存在を全面に押し出し、報道の現場で他社に先んじようとする思惑があった。取材体制の構築や誌面構成も、新聞の販売促進という商業的動機と密接に結びついていたのである。
著者の貴志氏はこれを、『そうした姿勢は、果たして戦時下という特殊な状況に限られたものだったのだろうか。「終戦」を経て、報道のあり方は本当に変化したのだろうか。』として、現在の報道のあり方に対してへの問いかけになっているののですが、私は別の角度から考えてみることにしました。もし報道機関が商業的動機と密接に結び付いた報道によって戦争を利用し、戦争を煽り、世論を軍に都合よいように誘導したら?この責任は非常に重いのではないだろうか?。東京裁判では報道機関の関係者は裁かれてはいません。そこでCOPILOTにかなり直接的な質問をしてみました。
政治家が2.26や5.15事件後、軍部からの圧力に屈したという構造は理解できるのですが、報道機関は金儲けのために軍に協力したのですよね?そのほうが明らかに罪は重いと思いますが。
報道機関が金儲けのために軍に協力した側面は確かに存在します。新聞は軍に従ったのではなく、軍と一緒に“戦争を作った“側だった。とした上で歴史学的な観点から、新聞は「国家の物語」を信じて、国家のために戦争を支えることが正しいという価値観が社内に共有されていた。社会全体が“単一の物語“に巻き込まれていたため新聞だけを切り離して「より罪が重い」と断定するのは難しいというのが研究者の立場だそうです。責任は極めて重いが、商業主義、国家主義、社会の空気が絡み合った“多層的な構造“だったことによる歴史的・倫理的責任としての重さであるとのこと。この後、COPILOTとは「多くの新聞人の回想や研究では勝てると思っていなかった戦争の物語になぜ巻き込まれたのか?」とか「報道機関の責任者が保身のため行った結果なのでは?」とか、「なぜ社会の空気は何も考えずに一つの物語を信じたのか?」などだいぶキャッチボールをすることになったのですが、それについてはあまりにも長くなるので書ききれませんので割愛します。ただ最後に一つ、社会が思考停止に陥って暴走する単一の物語を止めるためには、別の物語、別の回路を生み出す力が必要とのこと。それにはNarrative Strategy ,Emotional Strategy,Relational Strategy,Institutional Strategy,Temporal strategyなど高度の戦略が必要なようです・・・・。多層的に組み立てる戦略とは・・・じっくり考えてみたいと思います・