明王院、鎌倉殿の13人ゆかりの地番外編・藤原頼経

2022年09月08日 16:27

「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」      
                       鎌倉右大臣実朝

世の中が変わらずあってほしい、波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい。大体こんな感じの意味らしいです。大河ドラマ鎌倉殿の13人では、第3代征夷大将軍・源実朝が登場しています。実朝は和歌を愛し、「悲劇の天才詩人」といったイメージで、師である藤原定家からも評価されていたと思われます。しかしそんな和歌好きの実朝の生涯は、鎌倉殿であった1203年から1219年に暗殺されるまで、御家人の争い事が続きます、1205年畠山重忠の乱、その年に牧氏事件、1213年泉親衡の乱、その年に和田合戦、最終的に実朝が1219年源頼家の次男・公暁(幼名・善哉)に暗殺されます。この暗殺については諸説あって、北条義時説、三浦義村説、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀説(ここで合議制?)、後鳥羽上皇説などがあるそうです。何はともあれここで源氏将軍及び源頼信から続く河内源氏直系棟梁の血筋が断絶してしまうのですが、その後に第4代征夷大将軍に迎えられたのが藤原頼経(幼名・三寅)です。1219年実朝が暗殺された後、皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇から拒否される(この辺りから承久の乱の伏線になっているのでは)。そのため源頼家の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳(?)の頼経が迎え入れられる。1226年正式に第4代将軍となるまで、北条政子が尼将軍として将軍の代行(北条義時はその補佐)をしていたそうです。つまり承久の乱1221年の時は藤原頼経は4歳、北条政子の尼将軍時代に起こっています。後鳥羽上皇は北条政子を甘く見たのか?はたまた幕府の混乱に乗じようと思ったのか?この辺りがドラマではどう描かれるのか注目です。

今回は、そんな頼経が1235年に建立した明王院に行ってみました。ここから歩いて10分くらいの十二所にあり、鎌倉幕府の鬼門方角にあたる鬼門除けの祈願所として、五大明王を祀っています。ちなみに鎌倉幕府の将軍の発願によって建立された、鎌倉市内に現存する唯一の寺院です。写真は外観だけです、寺院内は撮影禁止でした。残念ながら五大明王も見ることはできませんでした。

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